ていうか、僕は成田家から怒られるまで成田亨を利用しつくしてやるつもりなんだが!
スタンス
成田先生が晩年まで何で自身デザインする怪獣などを美術カテゴリーと考えたがらなかったかというと、たぶんいわゆる美術というのは、真善美という人間の生きる上での理想、と組み合わさってこそ重要だからなんだろうなと思う。で、ボクもそういう風に思っている。だから、先生は怪獣でも宇宙人でも悪をデザインする事自体を美術だと思わなかった。ボクが美術にこだわるのもそういう理由で、つまり悪を殊更描きたくない、という個人的感情というのがある。
でも、「美」自体は悪と組み合わせる事がタブーというか背徳的であまり好ましくないものであっても(「退廃美」やナチス軍服の機能美+デザイン美など)、たとえば「芸術」や「アート」というのは善を描いても悪を描いても、たとえばその双方を対比する形でひとつの絵や彫刻や映像作品などで描いても、芸術やアートなんだよね。
(「アート」という言葉は本当に軽くて、つまり中身が無くても形が新しければアートだったりする。重いアートもあるけれど、それは本当にヒト次第になってしまうから。)
つまり、「美」は悪に転用するとプロパガンダにも応用されるほど危険だから、美術を悪のための悪用する事はいけない事だが、芸術は悪そのものを描く事も許される、という事で、だから、成田先生の怪獣宇宙人は・・・ものによって美術でもあるし芸術でもある、という考え方をボクはしている。
ただ、成田先生は、(そういう風にボクは美術と芸術を分けて考えてるんだが)芸術に理想があったので、怪獣を芸術という風に考えたくなかった、という事なのではないかと思う。
ネロンガでもガボラでもザラブでもメフィラスでもゼットンでも、人間を悲痛にさせたり殺したりだましたり絶滅させたりする範疇においては、そういうデザインは形状が仮にディテールなど面白いとしても極めて退廃的なものであって(普通一般のウルトラを知らない外人からみれば今でもそうだろう)、素直に美術とはいいがたいものである。でもアートの一種である。・・・という考え方になる。実は成田氏もそういう考え方だったんだろう。だから怪獣を描くにしても絵や彫刻に組み込む事で芸術にしたかった。宇宙人はまぁ・・・同じデザインの同種族でも、イイ奴も悪い奴もいるだろうから・・・先生の描く宇宙人って、絵の中では楽しげでいいよね。
(つまり、怪獣や宇宙人のデザインの中に「芸術性」があるとしても、その存在自体は「真善美」の「善」とはかけ離れてる場合もあるって事だ。「真」はあるかもしれないが。その辺だよね。)
※ ちなみに、ボクは元より、多人数で行う「総合芸術」という概念とか効果を、あまり信用していない。
で、ボクは、基本的に善良なものを描くのに美術を使いたいというのがあるので、オリジナルデザインでは悪のキャラをほとんど描かない。たぶん20代位までは描く事も考えてたし描けなくはないんだが、業界と特に関わろうともしてない以上は、悪者のデザイン画を描いても仕方がないじゃないか、というのがあって、ボク自身は善良なデザインしか描かない事にしている。同時に善良なオリジナルデザインであれば、それは自動的に美術カテゴリーにもアートカテゴリーにも芸術カテゴリーにも当然入る、という考え方である。だからボクの個人製作のオリジナルデザインは、美術芸術以外ではありえないので。一応念の為。
その都度その都度、そういう風に自己スタンスを決めていかないと、ボクは作品を作り続けられない。
(いや、嘲笑してる連中は大勢いるよ。でも大勢いるだけで意味のない連中なんだよ、うん(笑)
無能なゴミ連中が何を言った所で連中はゴミ。話にならない。)
※ あと先生が「ウルトラマン」を過去のものにしたかった理由は、つまり「シン~」のテーマ的結末のような・・・それ自体を先生も問題があると思っていたからだと思う。先生はボクが彫刻手伝いをしていた頃すでに「Uジン」という世界各国に友人ヒーローがいるような新ヒーローを構想していたんだけど、それはつまり孤独な自己犠牲者を出すより、世界の人々と頑張るヒーローを作りたかった、という事なんだよね。
それが先生にとっての、ウルトラマンを超えるヒーロー作品像だったわけで(まぁそういう作品今では多いじゃんというかもしれないけど)。(まぁ先生はそのヒーローの主役を浬氏にして欲しかったわけなんだが)
ていうか、ボクは、成田先生は「突撃ヒューマン」でとっくにウルトラマンを超えるヒーロー像を描けてたよと思ってるが。超えてるというのが大げさでも、同クラスだとボクは思っている。あの放送時期だけは、我が家の視聴率は突撃ヒューマンが100%だったのだから。
ボクはだから、90年代に先生と作れればなと思ってた、更にそのまた先のヒーロー像を描き続けていると、自負はしている。(12:07)
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