ていうか、偽弟子無職なんだが!

 2023.02.26 Sunday

成田亨氏没後21年

 今日で初期ウルトラシリーズデザイナーでボクの恩師でもある、成田亨氏の没後21年です。


 大体大江山鬼彫刻モニュメントの酒呑童子の日野プレハブまでのFRP搬出までの作業が終わったのが33年前の今頃。鬼彫刻の作業はさすがにかなり昔に感じるけれど、先生の没後からは・・・色々あったけれど、早いような、短いような。


 ボクが鬼彫刻手伝いの初期「鬼工人」(弟子扱いだったボクが教室出たあとに、同じく弟子扱いだったタケカサ氏やイイダ氏が同名でワンフェスに出て成田デザイン系のガレージキットを売る事になるわけだが。京都での台座作業に参加した成田生徒はタケカサ氏とイイダ氏の二人だけです。さすがにあの作業は給料出たらしいが)で酒呑の衣部分造形チーフから何からもろもろ引っ張ってたのもほんの数ヶ月位だけど、最近の「グレーテルのかまど」でも子息の浬氏が出演した回で大江山鬼彫刻が映し出されて、なんかやっぱりモニュメントに先生がこだわってた甲斐はあったんだろうなぁ・・・と遠い気持ちで見ながら思います。


 タケカサ氏やイイダ氏はその後も鬼工人(ワンフェス当時鬼手伝いじゃなかった人も鬼工人のブースにはいたようで、渋谷教室などの生徒かどうか確認してなかったし、そのワンフェス模型グループの方の鬼工人の全員が成田氏の弟子扱いになってたのかというとボクは確認していないんだが)で、ガレージキット作り続けてて、ネット検索するとその頃の彼らのイイ造型のガレージキットはやっぱり出てくる。みんな頑張ってたんだよなぁと思うよね。ボクがやめた後の日野や渋谷の美術教室については95年頃電車内で会った成田氏は色々ぷんぷん怒ってたけど、でも口ではなんだかんだ言いつつも、かもしれないし(^^); ←???


 


 なんか片付けてたらX68000と一緒に初期「鬼工人」のロゴの入ったスタッフ用の上着が出てきて・・・スウェットですね。裏には成田氏の酒呑童子の迫力顔のイラストのプリントが入ってます。未使用のまま出てきました。


これは以前にもUPしたと思う、製作現場の酒呑童子の額入り写真と一緒に、鬼彫刻の打ち上げパーティ(日野教室近くの御食事処にて)で先生からもらったもの(当時は自分は比較的体型が細かったのでMサイズ頼んでた。今じゃたぶんキツイ)で、でもお金は払ってて、教室内から希望者分作ってる筈なので、日野プレハブまで鬼手伝いに来れなかった生徒大勢も買って持ってるのではと思う。


 たぶん先生としては、またみんなでこれを着て大きな彫刻の作業などできたら、という思いもありながらだったのかもしれない。


 なんか胸の「鬼工人」の文字、和風書体で相撲文字だったりして(笑)。和に傾倒してるなぁ(^_^);


 


 成田先生には絵描きや彫刻家の服装は基本的に色は抑え目で地味、という考え方があったみたいで、やっぱり彫刻造型グループって理由からかグレーの無彩色系のスウェットになったんじゃないかと思います。(ボクも教室に通ってる時の服装で茶系の服を着てった時にセンス的にほめてもらえた事がある。先生には素焼きっぽい色に見えたからじゃないだろうか)


 (※ でも、まぁ、ボクは頭がほぼ完全に西洋傾倒型で、日本風の外観や装束建築を認める時代は縄文弥生(土偶や埴輪の時代)から卑弥呼や聖徳太子の時代までで、その後はいきなり明治時代まで一切認めない(江戸後期浮世絵がギリギリ)、みたいな美術価値観なので、なかなか和に傾倒しつつあった成田氏と教室の方向性とは時期的には真逆で本当に苦しむ事が多かった二年だったんだけど、でも先生は本質的には西洋型美術教育を清水氏らから受けてるので、そういう教え方ではあった。で、逐次頭の中で補正して勉強していた気がする。鬼彫刻でも酒呑は粘土→石膏雌型→FRPから砂型→ブロンズ化してるわけで、FRPが中間で入るのはやっぱり抽象彫刻や映画美術やってた成田氏ならではって気がする。やっぱりそこは、成田氏は西洋的思考から和に回帰したわけで。でもボクは和を受け付けない(武家ヒエラルキーも武家文化も大嫌い)という悩ましさはあるわけで(いまだに)。で、成田氏の怪獣デザインなどは、和の発想が多分にあるけど、ヒーローや宇宙人のデザインには和発想は少なめで。ヒーロー系統や宇宙人デザインを指向する生徒は当時少なかったかもしれない。 2/27 1:29〜35)


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