ていうか、偽弟子設定に逃げる56歳無職なんだが!
2024/05/30 07:39
成田亨彫像造形を生前最多日数手伝ったのはボク=森本コージ(浩司)です。
彫刻家成田亨氏の彫像造形を生前最多日数手伝ったのはボク=森本コージ(浩司)です。(タイトル長くなったな)
いや、弟子扱い生徒(成田亨美術教室)だったボクに対してあんまり酷い中傷されるし、業界系のスタッフで成田氏から特撮セットの事など習って弟子自称している人も多いんだが、成田先生が実際に弟子と言っていた(美術教室内や教室外に出向いた時など)中でも大江山鬼モニュメントの手伝い日数が多かったのはボクと、タケカサ氏とイイダ氏と、サトウ君とサカタ氏たちであって。あとイシバシ氏(イシバシ氏とサトウ氏などはボクより年下である)も手伝い日数がほんと多くて助かったけど。渋谷教室からもそんなに多くではないが都合のつく人たちがその都度来ていた。スガワラ氏とか
で、タイトルの話になるんだが、ボクが、彫刻家成田亨の芸術家としての人物彫像の粘土造形を実際に最多人数手伝った生徒である、というのはみんな大体解っている事で。簡単に証明説明。
まず、鬼モニュメントの三体の鬼で、3mの衣を着た酒呑童子の彫像が一番巨大だったんだが、これは1989年の秋から日野南平のプレハブで造形作業が始まった。実は美術教室生徒が手伝ったのはこの鬼だけで、2.5mの茨木童子と2mの星熊童子は美大出のプロの人が手伝っている。
で、造形手伝いは成田美術教室の日野教室と渋谷教室の生徒から時間に都合のつく生徒がその都度来ていて、みんなで「鬼工人」というチーム名なんだけど、大体最初は毎日のスタッフが2名から3名くらいで、しかし作業はかなりきつく、年も後半になると都合で来れないという人も多くなったりした。そういう時は先生と二人での作業になってしまったりするわけだが、、
ボクは当時大学法科を中退(2年間は復学できる中退)して時間があったので大体、月水金で毎週手伝いを続けていた。作業は月~金で土曜は休み。日曜は美術教室なので作業なし。で、美術教室のアトリエとしても短期間プレハブを使った。
ちなみに89年中は原型師志望で成田氏と二人で筋肉造形をしていたタケカサ氏が週1からたまに週2(筋肉造形を手伝えた生徒はタケカサ君だけだ)、髪造形をまかされていたイイダ氏は週1手伝いだった(のでマジどうすんだよって時間が)。もちろん顔や胸や腕や指先足など、キモの部分は先生が全部やる。もしくはタケカサ氏に粘土造形サポートなどしてもらいながらで。だから先生の筋肉造形サポートしていた成田美術教室生徒はタケカサ君だけだ。
サカタ氏とサトウ君の手伝い回数もなんだかんだでかなり多かったと思う。他生徒に比べるとイシバシ氏も含めかなり日数が多い。
ボクは衣部分のリーダーなので週3から下手すると週4の手伝いだった。あまりボクが多いと他の人が手伝えなくなるのと、ボクが手伝い過ぎるとみんなボクに頼り過ぎる、という事で、金曜日は1時間早退して出欠書かない事にしたり、色々先生と調整したりはあった。(実際弟の病状が悪化したりもしたので助かった)
あの1989年末のなんでみんな手伝いに来てくれないんだろ感は本当に本当にキツかった。
(ていうかイイダが金曜しか来ないわけで、でもイイダ氏が来てる時には絶対ボクはいたわけだから、ボクは金曜もちゃんと行ってたに決まってるのである。アニメ見たいから一時間早く帰るとか言い訳しながら(笑))
日野先輩生徒のリーダーのN氏が1日だけでそれ以上手伝うのを諦めるくらいキツイ3K的な作業で。(N氏が美術教室をはじめた人なんだけど)
で、酒呑童子の粘土作業は大体年明け半月後くらいまでは延々続いたんだが、つまり、成田先生は彫刻家なわけで、彫刻家としての成田先生の巨大彫像の造形作業、というか具象人物彫像(鬼だが)を現実に手伝える機会は、美術教室生徒にも、いや特撮美術業界でも、その時以外ほとんど無かったはずである。それが大体どれ位の日数かというと、粘土作業を手伝いに来ていた日野の某先輩が手伝った日数が大体平日7回くらいで、その先輩の参加が開始2週後くらいから、実家の鮮魚店作業で指を守るため1月半ばからの石膏FRPの作業には出れなくなったりしたので、大体ボクの粘土作業は全体約50日?の内の、30日以上はあったらしいのだ。まぁ年明けて1月後半とかはもう石膏FRPがほとんどになり、かなりスタッフに来れる都合のつく生徒たちが増えて、結構楽になってはいた。
で、茨木童子と星熊童子はプロの人達が造形手伝いしていたんだけど、大体が慣れてる方々だし、平日1か月くらいの手伝いで2つとも完成してしまったらしいんだよね。
で、つまり元の話に戻ると、人物彫刻の造形作業の重要点を「粘土造形作業」として考えるなら、やっぱり彫刻家成田亨の最大の人物彫像を、実際に粘土で大格闘しながら製作スタッフしていたのはボクらだったし、成田亨氏の生前の人物彫像の粘土製作手伝い実日数が一番多かったのは、ボク(森本コージ(浩司))で間違いない、という事です。
(でも、筋肉や髪を実地で頑張ってたタケカサイイダも頑張ってたし、サトウ君サカタ氏や他手伝い入ってくれた方々に感謝もしてます。でもほんと衣リーダーとしてはサトウ君とサカタさんやイシバシ君や、サポートのスガワラさんたちにも感謝。あとタケカサ氏イイダ氏は現地手伝いにも行って台座でもっと長い日数、アンカー的に先生を手伝ってるので。京都も含めた鬼手伝いの通算日数ではボクは(弟の病気などあり)日野の約50日だけだから、イイダ、タケカサに次ぐ3番目、なんだよね、、、(^^);
(日野はボランティアだったが京都はコンクリ建造作業などでお給料出たのである!行きたかったなぁ(笑))
~8:28~57
※ 酒呑童子最終日の搬出のFRP型組み立てで、イイダ氏の15cmズレと平日実作業に1日も参加しなかった日野の先輩の45度、、60度かな、の回転ズレで大変な事になったのは事実なんだけど(特に回転ズレを補正しなくてはならないんだが、もともと隙間があいた薄いグラスファイバーのみの接合だから重量でたわんでいくって事である) あれは彼らの接合後しばらく経って気づいたんだが、トラック搬出の時間がなぜか動かせないという事でああするしか無かったのだった(ていうかやり直せないってみんな言うんだよ、、)。今だからはっきり言うけどイイダ氏も作業が何もかも細かくなるクセがあり、全体を見れてない時があった。例えば髪のモールドがこのモールドで効果が遠目に見えるかとか、釘の補強がこのサイズで大丈夫かとかがイイダ氏は気づかない(当時よ当時)。というか思い込みが激しいと気づかないんだよね。S先輩の場合はもともと通常作業を1回も手伝ってないからミス自体に気づくわけがなかったわけだし。、、、まぁ先生とイイダ氏があとでやり直したんだが。
最初はFRP用の樹脂原液缶や石膏の量をS先輩が微積分で出すって事だったんだけど、結局計算できなかった、って云われて。
でも先にとりあえずFRP型に使っていた原液のそこまでの使用量で、大体ボクが「大体この倍の量で大丈夫だよ」って体感で主張して先生と弟子仲間も納得したので、それで実際最終日まで樹脂量大丈夫だった、わけなんだが。
つまり、理論や経験はあるに越した事はないけど、個別の実地作業でそこまでの経過観察から可能になる事はある。作品はケースバイケースで、個別の作品の最初から製作現場にいなきゃできない事はいくらでもある。 10:46
つまり、思い込みや自分自身への過信をしない、とか、色々あるんだよね。 10:53
※ で、そこで学習し製作していた事というのは、成田先生のやり方であって、作った彫像も過去の歴史的な伝承の存在だし、何よりボクが89年から90年にかけて努力した事なんだよね。なので、この文で書いたのは単なる事実現実を書いただけです。他人にとっては、まぁ確かに、で済むだけの文。
そういう努力経験のあと無数に色々な事があって今のボクがあり、ボクの作りたいものにはボクらしい方法論を使うしかない。 12:37
※ というか、成田教室生の場合、鬼モニュメントの日野プレハブまでの平日手伝い回数はボクが約50回(50日)で最多なんですが、日野教室生内ではイシバシ君が回数的には続き(彼と渋谷教室のタケカサ君イイダ君、サトウ君やサカタ氏の手伝い回数は日野プレハブ時点ではあまり変わらない。まんべんなく多い。)、日野的には次が年明けからの石膏、FRP作業を手伝ってくれたY岡先輩が約10~12回です。でもY岡先輩はコンピューター職なのに有給使ってよく手伝ってくれてたなぁと思う。次が鮮魚店の先輩で粘土原型時に手伝ってくれてて約7回。 19:31
※ まぁ、だから、ボクは成田新ヒーローがあるなら、先生の造形補佐はタケカサ君たちが必須だと思ってたからね。実際ワンフェスで鬼工人ブースでも出てたし。 19:33
ただボクなども、筋肉の詳細部分に及ぶ手前(粘土原型は木の芯にカポック(発泡スチロール)で軽量化し、そこに粘土をつけていた)までの粘土はつけているので、表面的部分を作れるようになるまでの中埋めなどはかなりやっている(とはいえ人体基本に関わる部分はほぼ先生がやるから)。というかそういう彫塑用粘土をやわらかくしたりカポック砕いたりが、一から半端ない量で。そこから衣部分の造形リーダーやって。で結局3mだと本体は搬送できない大きさだから石膏かたどりでFRP型にするわけでしょ、、、。普通のブロンズ像の作り方じゃないんだよね、、、。金棒の原型とかも弟子仲間で作ったしな、、、。 19:49~56
あと、ボクは酒呑の石膏型やFRP型は全パーツを作業してるので。顔でも手足でも筋肉パーツでも髪パーツでも、ボクが作業してないパーツはほぼないので、念の為。 20:43
※ なにはともあれ、あのモニュメント作業中に本当に功労してたのは、成田夫人の成田流里先生だったよなぁ、、とつくづく。毎日の先生と2人以上の手伝い、みんなのお昼ご飯を毎日毎日作ってお昼にとどけてくれたのは、本当に大労働だったと思う。おいしかったです。本当、成田先生の生涯の表現活動は運命共同体の成田流里先生の支えあってだったんだよなぁ、と。
23:05
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