ていうか、言語障害の56歳無職なんだが!
2024/05/17 18:40
ボクにとっての言葉の使い方……。
下の文章で色々書いたけれど、言葉の定義をいわゆる一般的に言われる定義に合わせて書いている。美術芸術系の人たちが使っている定義に成田氏の発言の意味合いをかなり翻訳してあわせているわけで。
でも実の所、ボクにとっては美術という言葉も、芸術という言葉も、アートという言葉も、それぞれみんなの使っている言葉の定義とはまた違うし、特にアートという言葉については、みんなや成田先生より、もっと大事に大切に(個人的には)していると思う。ぼくの定義するアートだと、ファンアートはやっぱり含まれなくなってしまうからだ。
というか、ボク自身にとっての一番原体験的なアートは、自分が授業で作った作品だったり習っていたオルガン、ピアノもなんだが、、母が教室に通って作っていた、はかなげな表情の美しい優美なびん人形数体であったり、やっぱり母が教室で習って作っていたアートフラワーの造花のディスプレイだったりする(先生の先生が日本のアートフラワーの創始者だったそうだ)。母はいつも「アート行ってくるわ(^^)」といそいそと楽しみながら通っていた。
どちらもきれいな美しい作品のみを求める作品作りで、実は結局それが、自分の創作活動の中でものすごく大きい。自分の原体験であり、ずっと大切にしている領域で、でも女性のやってきた事だから自分はこれまでしてこなかったんだが、、つまりぼくのキャラのプロポーションにもその人形らからの影響は実はずっとずっとある。(ソレイユママンはそれをわかりやすく描いた例)
で、ボク自身の「アート」というコトバの定義はつまりそういう原体験からの領域での定義だったりする。原体験って他人には触れ得ざるもので、変わらない代わらない不変のものだと思う。
また、美術と芸術の違いについていえば、
美術は美しさを人の心の真善美などと共に求める。だから自分はどちらかと言えば美術方面である。
芸術という言葉には人の心の良い部分も詳細に描くと同時に、悪やネガティブも含まれるしそれらも表現する、という差がある。だからネガティブを成田氏は描きたくなるのだろう。
(前に詳細に書いたのでこの辺にしておくけれど)
つまり、ボクは(前も書いたが)、人間の心のネガティブを、作品内では表現したくないのだ、仕事でもない限り。「森本さんにはこんなに辛い事や嫌な事が沢山あるのに、何で作品はこんなにきれいなの描けるんですか」とは前から言われてきたけれど、それは、テーマの必要性が無い限り、全くのネガティブを描きたくないから、だと言い切れる。だからボクは自己企画では悪キャラをほとんど描かないのだ。ボクの個人的作品に全くの悪キャラは必要無いという結論に到ったからである。(ヒーローものは別)
(つまりさ、寡作になるのは、あまりに酷い集団ネットリンチされたりなりすまし偽アカウントやデマまかれてると、、心の濾過機能が、、、って事なんだよね)
(ボクは悲しみについては描くと思います。悲しみに共感する事をネガティブだと思っていないので。それもコトバの定義の問題なので)
ボク(森本コージ(浩司))はアートや美術を続けるし、ネガティブを殊更描かない、という前提条件で、フルに芸術も続けたい、って事です。
個人的心情
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