ていうか、書いてることは全て嘘の56歳無職なんだが!

 2024/05/31 10:05

何故旧ゼネプロガイナ系オタクが、成田亨生徒を攻撃し続けたのか?(随時)

初代ウルトラマンシリーズ等デザイナーだった恩師の彫刻家成田亨氏との話はまだまだかなり長いんだが、端的に言って成田氏もその生徒も、成田氏が他界してしばらく、ゼロ年代前半まではかなり旧ゼネプロガイナックス系のオタクたち(主に消費系オタク)やパソコンゲーム系のオタクたちによって、特撮オタク業界や2ちゃん上などで、かなりの弾圧行為を受けていた。


  理由は色々あるが、これは大阪出身のゼネプロガイナックスだけでなく、その周辺のオタクたちがいわゆるオタク内での覇権を狙っていたからで、かなりの軋轢や複雑な感情を生んでいた。


 


 例えばボクが抜けた後の成田弟子扱いだったタケカサ君たちがガレージキットなど売っていた「鬼工人」などもおそらく彼ら系列のオタクたちにはひどい扱いを受けていた。また、1999年からの初期2ちゃんねるでも成田先生やその生徒たちの扱いはひどいものだった。成田先生なんて呼び捨てにされていた位で。


 


ちなみに旧2ちゃんねるの削除人代表は元ゼネプロの編集者だったと言われているんだが、旧ゼネプロのオタクたち(ガイナックスの初期オタクたち)が、成田亨生徒を徹底的に弾圧したがった理由がある。


 


 当時電脳学園などのアニメキャラ脱ぎゲーなども作っていたゼネプロ(ガイナ)が、90年に日野市で開催予定だった、「第1回日本パソコンゲーム大会」が、当時のエロ系ゲーム(後の18禁美少女ゲーム)も企業ブースで扱うという事で、いわゆるコミケの猟奇ポルノ同人などのオタクも含むオタク全体が叩かれていた当時という事もあり(例の事件から1年しかたってないし日野からみれば犯人のいた近隣市だし)、会場側の拒否を受け、都心に開催場所変更するという一件があったんだが、その拒否活動に、成田美術教室の日野教室の先輩たちが絡んでしまっていたからだ。


 


 もちろんこの拒否には成田先生夫妻は一切関与していない。


 成田美術教室は、元々N先輩らの高校美術部仲間が、成田氏と出会い始まった経緯があって、彼らはみんな日野市住人だったから、日野市にいわゆるエロ系のオタクたち(イメージとしてはコミケのエロ同人オタクだったのだろう)が首都圏から大挙して来る事は拒否したかったらしい。ボクは開催は知っていたが、日野での開催が決まっていたなら会場とも折衝はできてるだろうと思っていたので、中止を聞いた事はびっくりしたし(会場移転させるなんて可能なんだとびっくりした)、ただ日野市はほぼ全域文教地区(幼稚園や小中学校の通学路が多い)ので、それもやむなしだとは思ったんだよね。


 


 ボク自身は90年当時美少女ゲームは嫌いではなかったので(高校漫画でパソコン少女と探偵の物語の「シガレットチョコ」など書いていたし美少女CGは通常ジャンルで)、日野市内は近くていいなと思ったりもしたんだが、日野の地元に在住する先輩たちには危険なエロオタク連中が大挙して来るって以外の何物でもなかった。(ボクは都心のそのイベントには行ったが、たぶんエロゲーをパソケットとも違う大規模のショーイベントで扱ったのは初めてだったのでは)


 


 ところが、それで、ゼネプロ系のオタクたちがイベント拒否された理由原因に対してオタクの恨み(八つ当たりだが)を持つ事になってしまう。


 


 、、ゼネプロは元々インディーズ特撮やインディーズ的アニメやガレージキットなど出しているオタク企業だった。しかしそれこそ例の1/1ライダーマスクガレージキットの完成品が本物として売られた詐欺事件問題があったりしたから、あちこちの多作品のグッズ製作販売をしていたゼネプロ自体がかなり問題な事になってきていた。


 そんな中での会場移動だったのだが、つまりそれが会場やゼネプロ(オタクの噂情報流通は筒抜けである)などから漏れてしまっていたらしい(ボクは他人には言っていなかったが)。当時は初代ウルトラマンデザイナー生徒さんからそういう拒否があったと納得しても、先生が関係ないとなるとゼネプロ(ガイナックス)系オタクは成田生徒への攻撃に走っていったという事、、、らしい。 


 


 そして、その後ゼネプロは92年1月のワンフェスを最後にワンフェス運営からも撤退し、ゼネプロも解散、ワンフェスは海洋堂が運営する事になっていくのだが、ゼネプロとのオタクつながりで偉そうにしていたオタク連中はかなり多かった。しかし海洋堂開催となるとそういうオタクヒエラルキーが変わったりもあったらしい。


 前から書いている通り旧ゼネプロ系オタクもオタク的には覇権主義の連中で、権威を利用する連中なので、ゼネプロ覇権がなくなった事についての怒りはある。いやそれには成田教室は全く関係ないが。


  つまりゼネプロはオタクビジネスを手広く特撮からエロゲーまでやりすぎたので、企業体力がもたなかっただけだ。それ以外の理由はない。でも彼らには昔から正論通じないので。


 


 つまりそれがゼネプロガイナックス系オタクたちの古参層(2000年当時ですら古参層だ)や業界から成田生徒が忌避されるように仕向けられてきた、一つの理由にもなっている。


  また、成田氏の主張が旧2ちゃん上で主張をないがしろにされたり、運営に成田氏やボクへの悪口やデマが放置される原因化したり、昔でいえば、その生徒チームとして「鬼工人」ブースでガレージキットディーラーをしていたボクの弟子仲間たちがインディーズ造形界ではさして話題にされず軽い評価にされたりしていた理由にもなっている。ワンフェスが海洋堂開催になっても、ゼネプロ系列のオタクたちが来る事は変わらないから。


 しかし、「鬼工人」ディーラーのタケカサ氏らは、渋谷教室なので、そもそも日野住人視点となんら関係ない。この件でタケカサ氏らが嫌がらせされるいわれは無いと断言する。


 


 


 つまり、元々には、エロゲームを伴う第1回日本パソコンゲーム大会が日野市内会場での開催を会場拒否された、その原因が成田生徒に拡散したのが、旧ゼネプロガイナックス勢力の2ちゃんねるなどネットオタクによる成田氏や生徒に関する発言軽視や無視やディスりやバッシングに、つながっている。また、例えばボクが業界によるネタ流用いじめなどを受け続けた理由にもなっているし、つまりは旧2ちゃんで特に成田先生の没後以降、ボクが成田亨の弟子生徒として偽弟子だのバッシングされ続けたのも、根底原因はそういう事である。(というか成田教室でも日野の先輩たちからボクへの嫌がらせあったしなぁ。権威主義っていうなら日野渋谷両先輩たちも当時は権威主義だったしさ。考えてる事がわからない、、というか先輩たちはオタク関連じゃない定職持ってたからさ、アニメ漫画ゲームか特撮か、なんらかの業界にまだ行けたらと思って成田教室通ってたボクの気持ちは解らなかったんだよね。だから鬼彫刻手伝いが日野ブレハブで50回と最多だったボクの名前を目録から消そうとしたりすらした。)


 ただ、そのパソゲー大会会場移動のみに対しては日野教室の先輩たちは地元住人として、正しい選択をしたのだと思う。つまりオタク連中に対して言いたいのは、文教地区と都心開催と一緒くたに考えるなよ!!って事なんだが。


 


 、、、だが、それだけではなく、90年代には、オタク業界的には、いやオタク業界だけでなく、大手業界ですら、成田先生(の権威)を利用したかったので、成田氏を孤立化させたかった、という事。だから成田生徒を彼らとしては業界扱い的にディスりダンピングするのが手っ取り早かったわけなんだよね。(つづく 10:30~11:31~14:18)


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※ 成田先生としては、ウルトラマンやセブン、初期ウルトラ怪獣やホーク、ポインター、隊員服などのデザインを自ら生み出していて権利主張もあったんだけど、80年代に成田先生に協力的だった出版編集部やガレージキットメーカーはあまり多くはなかった。出版でいうと一つは「宇宙船」編集部のある朝日ソノラマ、もう一つはバンダイの「模型情報」(→B-CLUBに派生)だった。ちなみに先輩たちは朝日ソノラマ読者系で、ボクは模型情報→Bクラブ読者だったが宇宙船も立ち読みはする、という感じだった。ガレージキットメーカーでは海洋堂さんがガレージキットの箱絵に成田氏のイラストを使っていたりした。


 で、ゼネプロはダイコンOPアニメや庵野氏版帰ってきたウルトラマン愛国戦隊大日本などのインディーズを作りながらガレージキットも作って通販していた。その頃オ●●ング氏が関西で不倫問題を起こしたりして関西オタク界で大問題になったりしたんだが(当時東京と違い、関西オタク界(男女)では不倫は完全ご法度だった。関西は差別や人権問題に厳しいので。ちなみにボクは84年まで大阪在住)、経過としてゼネプロは東京に進出してバンダイの模型情報などとも関係ができ、ヤマタノオロチの逆襲などエモーションレーベルでビデオだしたり庵野氏のライダーコスプレなど掲載されたり。模型情報で成田氏が連載持ってた頃。その後オネアミスを作る上でガイナックスが始まり、、だから庵野氏らが成田氏のファンってのは本当なんだが、、ゼネプロの人たち的には成田氏に限らず新マンやライダーもゴジラも戦隊も過去作品は何でも好きだしパロディー化したいし、ガレージキット作って売りたいし、なんだよね。で、ゼネプロ支持層もそうで、別に成田氏の作品だけ好きなわけではなく、オタク的に何でもアニメ特撮漫画は好きなわけ。それは全然構わないし。で、バンダイ的には成田氏と何かは作りたかったんだけど、いまいちパワーが弱かったし、成田氏を引っ張り出すパワーが弱い中、成田氏は具象作品方面に作品方向性の梶をきりつつ、ちらほら個展を行っていた。で、ボクが成田教室に行ったのはその頃なんだけど経緯ははぶく。18:56

で成田教室で習いながら鬼モニュメントやCMセットの手伝いをして、美術教室を卒業したのは2年ちょっと後の91年夏です。 18:56~19:12


 でゼネプロオタクなどは権威利用主義だから(他のオタクもだが)、円谷に著作権的な不満のある成田氏よりも、円谷の味方になるし(一般的な反応なのが余計になぁ;)、アニメ特撮業界のたくさんの作品の版権元や作り手の味方になった方が、権威利用主義オタクたちは安定しちゃうんだよ。(補記20:11 それが全部旧2ちゃんねるの特撮板や昭和特撮板に出てる)


 


  で、ボクが成田教室に入った後でも、海外版ウルトラのグレートやパワードなど、ウルトラはリメイク作品を作ってたけどバンダイはやっぱり他の人たちがウルトラを作る企画を通しちゃうわけで。


  で、ボクが教室にいた頃の先生は何というか、よりミニマムな製作方式のヒーローものを作ろうとしていたんだよね。自身が監督してあと俳優、カメラマンであとスーツや着ぐるみだけで作る「Uジン」の企画リスタート版を。ここで詳しくは書かないけど。


 つまり、より成田先生のヒーロー企画はミニマリズムもしくはインディーズ方面に向かっていた。いや大規模特撮も企画が通れば成田氏はしたかったんだろうけど、バンダイは成田氏じゃなく他に予算使ってしまうし、逆に成田氏はよりミニマルな考え方をする。で、パワードなんてそうだよね、ガイナ系で人気の前田氏の怪獣デザインで海外で作ってしまうわけで。当時は成田氏は銀座で常設画廊をして作品発表していたと思うけど。


 


 つまり方向性の違いというか、成田先生がヒーロー表現する上でミニマルな別方向を模索していたのは明らかなんだが、特撮オタクたちはやはりウルトラをとか言ってしまうし、そのためには成田氏に美術教室をやめさせたい、となる(実際作品製作との両立がきつくて成田氏は美術教室を90年代前半でやめるんだけど)


 バンダイも成田先生でやっぱりウルトラを作りたいといいつつ、やっぱり成田氏抜きで作るし新ヒーローを取るリスクはしなかったり。何より成田氏のウルトラにおける著作権問題についてバンダイは成田氏に好意的な形で解消仲立ちができなかったから、いずれにしろ当時のバンダイも円谷もその成田氏の主張を知っている生徒たちには業界内にあまり入って欲しくなかった。つまりそれらが成田先生が新ヒーローを出来なかった理由なんだが。業界は成田氏をコントロールしたい、でも教え子抜きで作りたい、等々。でも教え子が近くにいなくても作品企画に資本側がOKださない、、、変わらないじゃん的な。で、バンダイじゃなきゃタカラは?みたいにボクは思ってたんだけどさ、、、業界でもオタク界でも思惑多すぎだよ。


 


 まぁ各自頑張りがあったから今があるんだろうね。今若い成田ファンがいるのも、良い事だと思っている。シンウルトラマン後の時代だもんなぁ。


 ただ、ボクの事が不条理に気に入らない奴はそりゃいるだろうけど、事実をデマ扱いする事は許されないよ


 


 


 いや他の成田生徒の人たちも今はきっと各方面で活躍してるんだけどね、たぶん。ヒーロー系オタク系に限らず。イシバシ君なんてセット美術関連志望が、数年前には画廊関連の仕事になってたみたいだし。


 再会は無くてもみんな元気でやってればいい、とボクは思っているんだが。


  ねぇ。嫌がらせで携帯電話も安心して取れない、SNSも閉鎖し続けるしかない時代。そう願うしかないよ。   


    ~20:01~36

 おもちゃ系

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