ていうか、徹夜で過去を捏造する56歳無職なんだが!

 2024/10/13 01:29

こういうの、自体を作り続ける事。

ボク(森本コージ(浩司))は浦和市当時(現さいたま市)の小学前半(70年代)でアニメ会社の社長さんの親族の子と同級生だったり、あちこち模写イラスト投稿してたりはしたんだが、いわゆる自分のキャラや自分の物語でを描き続ける事はずっとしてきたし、子供だからそれは影響は受けたりするわけだけど、なんていうかボクにとってのそれは結局のところは摸写で済んでしまったので、結局「オリジナルをずっと描く」が背骨にあって。


 で、大阪の高校(桃山学院高等学校、私服高で当時は男子高)の漫研が大阪府で初めて漫画研究会が漫画研究部として認められた部活だったりしたので(それは大阪府で有名だった。少なくとも大阪の私立高校の漫画研究部では1980年以前には既に漫画研究「部」扱いだったのは桃山学院高校漫研だけで、これはかなり早い。後に公立にも部扱い漫研が拡散する。桃山学院高校漫研が部活である事は、大阪府下高校生徒のかなりが(延べ●十万人単位)が知っていた。理由は後で書く、、、部誌は年間で400部程度しか売らないんだけどなぁ、、、)。


 


 で、ボクのいた桃高漫研の部誌も部活も大阪の高校大学や業界から注目されていたし、結果83年度入学のボク(アイスピック名義)も同学年ではエースだったので、作品なども他高校大学や関西系業界関係には注目されていたという状態ではあった(というかそれ自体がボクの転校後にかなり話題になってったらしい)。そういう漫研活動だったのね。大阪府下の合同漫研展示とか、、なんかボクは転校可能性で漫画描く専門だが、部長たちは交流会とかあったみたいだし(後に部ではなく会になるのだがそのいきさつはまた後で(前にちらっと書いたかもしれないが))、、、まぁボクには漫研以外の交流もあったけど。


 


 つまり、ボクの場合はオリジナルを描き続ける努力を小学生当時からしてきているし、桃高での活動は部の規定通り1年7か月だが(転校後も漫研活動は継続して部誌掲載してるし高2の文化祭にも東京から新幹線で行ってる)、ボク自身のオリジナル作品によって、結果的にそれなり多くの影響を当時の大阪関西圏の漫研など高校大学生徒や今の業界人たちに及ぼしてきてしまっていた。


 (ちなみにこの事実状況については当時の関西圏や関西出身者の漫研や同人や業界人しか知らない。というかアニメ業界の場合は関西にも原画動画スタジオがあるので80年代前半も関西当時のボクについて認知してはいたが、大体の漫画出版業界や特撮関連業界は関西には製作スタジオがない。ぶっちゃけ西日本の最先端状況については関東の漫画出版系の人々は当時から何も知らないよね。、、、漫画アニメ特撮に限らずだけど。漫研や同人についても、関西や西日本についての知識はコミケにもほぼ無いんだよね。昔から。)


 


 だから、ボクの作品を彼らが見て「こういう作品を描きたい」と思ってきた人々や結果生まれた業界作品などもホント大昔からかなり多いわけなんだけど、、、でも、ボクとしてはつまり「こういうの描きたい」ではなくて、その「こういう」自体をゼロベースから作ろうという努力を昔から常にしてきた、ってのはある。 (他人作品に対するこういうの、は、ボクにとっては摸写で済んでしまうので。で、桃高漫研の部誌は、パロディーや摸写に対して一切禁止だった。)


 


 つまりボクの作品群に対して、みんな昔は「こういうのを描けたらなぁ」と思っていたのが、「こういうのなら俺たち私たちでも描ける」に、テクニカル主眼の現代では変わってきているのかも知れないけど。


 


 でもボクとしては、なんというかディテール云々も気にしてはいるんだが、その「こういう」自体をゼロベースで生み出す努力を何十年もしてきたわけなんだよね、ボクは。だからディテールやフォーマットに割と頓着しないんだけど(とは言え新しいのめっちゃ作ってきたが)。もっと精神的、メンタルやテーマの問題というか。


 


 ボクの場合はだから、一番大事なのはボクなりに「こういう」を新しく創造想像創作して描く事作る事だと思っている。「こういう」を作り続けてきたしこれからも作る、って方向性は変わらないです。「こういう」をゼロベースで作る自体がボクにとっては一番重要なんだよね。


~1:33~2:36~3:25(いや、この文、表現が難しい。適切な表現を探ってます)


 


 ※ というか、もっとインナー問題や色々で、新しさと同様に自分にとって重大なテーマはあるんだけど、それは後の更新にて。 4:40


 


 


※ ボクを嘘呼ばわりしている連中が妙な圧をかけてくると嫌なので、桃山学院高校漫研が大阪府下漫研で最初に部活認定(全国でもかなり早いよな)された経緯を書くと、70年代後半の漫研の部員やOBら(先輩たち)が、タバコの害について詳述する100ページほどの啓発漫画冊子(同人誌)を作って、それが当時の啓発漫画として先端的にいい出来で、それが認められて高校側から部活として、認定されたんだよね。だから正確には部認定は70年代後半と思う。それが大阪の高校漫研が部活認定された最初。


 その冊子は桃高自体が毎年発行を続けて、学校内の生徒(ボクの頃で20クラス)や、大阪市内や府下のいくつもの高校(中学も?そこは不明瞭)の全校生徒に毎年●万部とか増刷されて、毎年頒布され続けていたわけ。当然おくづけには桃山学院高校漫画研究部とあるわけで、それでのべ●十万人の大阪の高校生徒が桃高漫研が部活であると知ってる、と上で書いたわけです。70年代後半当時高校漫研が部活認定って、なかなかありえない事だったと思う。 いや、割とボクが思うより総部数は少ないかもしれないが、のべ十万人前後だとしてもかなりの数の高校生徒たちが認知していた事は違いがない。あとでまた補足書くけど 6:01~06


※ まぁこんな事コミケだの都内の各出版社だのが知るわきゃないわな。今それを知る業界人がいないどころか、昔から業界やコミケはその辺の大阪方面事情には無知だよね、、、 6:14


 


※ たぶん桃高で漫研が部活認定が一番早かった理由は、桃山学院がキリスト教学校で自由だったから、というのが非常に大きな理由なのだと思います。 6:29

※ ほんと、業界やコミケは昔から極めてどうしようもなく(大阪関西圏事情に限らず)無知なんだが、、その無知を巧妙に利用する連中もいるし、知ったところでコミケや商業業界のメリットにならなければ無かった事にしようとする歴史改竄主義者も多いわけで、ほんと業界も同人界も昔からどうしようもない。ボクとしては(70~)80年代当時そうだったよ、って当時事情を書いてるに過ぎないんだが。(だって当時の万単位以上ののべ人数の各高校生徒が知ってる事を再説明とか、めんどくさ過ぎる、、、、、、そこから?と) 17:36~49

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