ていうか、成田亨の名を利用したいだけの57歳無職なんだが!
2025/02/19 06:42
シンウルトラマンの欠点のおさらい
先日から書いてきた問題において、ボク(森本コージ(浩司))が、成田亨氏の弟子扱い生徒というか鬼モニュメントスタッフとして、シンウルトラマンの欠点を書くなら、つまり、成田氏が最も嫌った(様々の、特に身体障害や民族的な)「差別」について、反差別主張が作品内に殆どなかった、という点があげられる。
いや、つまり成田氏は人間が差別主体である事を知り抜いているんだが、「シン~」は人類が披侵略側に描かれるので、成田氏のそういう心情がスルーされた問題。
というかシンは自衛隊協力撮影だったり●菱も絡んでいたし、バトル大好きなバンダイ主導でもあるのだが、、、だからすごく客観的には社会的に最初から認められた作品だ。
つまり作品は国や社会や権威や権力に寄っていて。しかし要するに彼らは成田氏をアナウンスしていながら成田氏の晩年の苦しみを直接には知らないんだよね。
成田氏の赤ん坊の頃からの左指機能障がい者としての苦しみ、著作権やデザイン印税についての不遇、ヒーローものをやりたくてもできない、美術界では異端である、とか、せっかく彫刻家としてモニュメント作る作業でもあれだけ先生におべっか使う連中が長期の粘土石膏FRPは手伝わないとか(一応日野プレハブではボクは最大日数手伝ったぞ)、、。
ほんと、CMセットの時、みんなで手伝って徹夜する晩の、成田先生のお酒で泥酔しながらの感謝とないまぜの悲痛な慟哭に近い嗚咽は、本当に、直に聞いた人にしかそれまでのあの人の悲嘆の人生観は解らないよね。やっぱりあの底には障がい者差別や職業差別、業界内部や美術業界内部のヒエラルキー問題があるわけで。
それは理解できると、みんな思ってるんだが、だが、それは表面的に解ってるというだけで(多くの障がい者の気持ちをみんな理解していると思っていながら解っていないように)やっぱり到底会ったこともない他者には解らないもので。
しかし、ゼ●プロ、ガ●ナ、カラ●などは、つまり基本的に昔から、基本的に大阪から進出してきながら、結局は大阪のアニメ漫画クリエイター志望者をヒエラルキー支配するような事を続けてきたいわば「勝ち組」なわけだ。ああなっちゃったけど、作品を作り続けられる、若者から搾取し続けられる立場でもあった点は勝ち組。
今ならみんな解るように彼らは性差別問題というかジェンダー問題には極めて鈍感でぶっちゃけ、作品もファンも差別問題リテラシーが元から低い。
また、オマージュと称して色々な他作品、先達からも後輩からも吸い取り吸収してきた会社だ。だからそのリターンができるかが近年テーマでもあるんだろう、、、とは信じたいが。しかしそれは権威へのリターンで、踏み台にしてきた後世代へのリターンではない、、、
まぁ後世代云々はこの項では置いておくとして。
周辺オタク男やとりまきファンがどぎついシスジェンダーで構成されているのが彼らゼ●プロガ●ナ周辺だったんだが、以降の作品もそうで。簡単にいえば彼らの作品内ではほぼ男は女を、女は男を好きになる。エロはあってもいわゆる健全な男女恋愛だ。また、同性愛ではレズは肯定されてもゲイは肯定されない、同性愛や性超越は、彼らの作品では割と変態的な敵方と同じカテゴリーに分別され、無惨に死んだり命を落とす。
そもそもエ●ァの渚カヲルが死んだのも、つまりは彼ら企業(テレビも含めた)のジェンダー差別によるものなんだよね。カヲルですら変態にカテゴライズされている。当時そういうステロ思想は彼らの作品だけではないが。佳人薄命はウケる。だがそれだけが増産悲劇の理由ではない。殺せるのは理解できないか実は嫌いか縁遠いキャラだからだ。バンダイ提供の東映のメタルヒーローや戦隊系でも、ジェンダーレス的だと怪人やお笑い扱いで雑に死んでいたでしょ?で、それらはテレビだとスポンサーとのお達しだのあったわけだが。健全番組のための。
しかし、やっぱり、例えば彼らの元のお仲間やヒエラルキー末端連中の肉接問題にしてもだが、、、つまり性差別やジェンダー差別って、一番身近な、分かりやすい違いに基づく差別なんだよね。身近なそこが差別なのに近くにいない人々への各種差別がクリアできるわけがないと思う。
しかも、テレビコードやスポンサーコード順応がそういう差別的シス思想やマッチスモを作り出す。拡大再生産で延々と続く。
書き直すと、彼らの作品では人間たちに対する超越者は必ず死ぬ。セオリーである。
、、それにおいてシンマンではまさにその超越者はウルトラマン(リピア)そのもので、超越者であるがゆえに死んだわけだ。しかも原典では復活してM78星雲に帰っていくわけだがシン~はそれすらない。
だって庵野氏は昔、あいつらウルトラマンは全裸で戦っているわけのわからない変態だ、と言ってたそうだから(笑)。いやあれは肌か服か判らないんだって。知ってますかそうですか。
ゼネ●ロやガ●ナやカ●ーの作品ではナデ●ア当時からそうなんだが、超越者というかボーダーレスやジェンダーレスや差別を超越したものが、物語上で生きる事が極めて難しい。
例えばナデ●アやジ●ンが生きるには多大な犠牲を必要とするし、シ●ジが生きる上でもなんだが、結局は男女にセパレートした存在が生き残るわけで。
だから身体が宇宙人であるウルトラマンも、機械に変えられたネオ(ビナシス)も、渚カヲルもみんな死ぬ。いや綾●レイも割と一貫してラスト前に一足先に死ぬ。グレン●ガンもそうじゃなかったっけ?美少女さん死んだでしょ。
つまりそれは作り手である彼らがそもそもそういう超越者というか、ボーダーを越えてしまっている存在を拒否したり理解したいが理解できない、だが、彼らに勝ちたいから結局理解の過程で相手を殺しても勝つ(勝ってヒエラルキーの上に行きたい)、、という繰り返しになってしまってきた、、わけで、、
いやそうとは限らないか。、、、、つまり彼らスタッフ自身が、自分のために犠牲になってくれる超越者に守られたい、と、大人になっても思っているような子供なヒトビトがなんだかんだで物語を決めてしまう。だから、そういう風に「努力したのに犠牲で死んでしまう超越者」キャラが増産されてしまうんだよね。つまりはスタッフ価値観の甘えにより、戦いで消費されて死ぬ。
あとは戦争の悲惨さを描くためといいつつ、、、単にトラウマ作品描写を作りたい欲望に負けてしまう、と。いや結局トラウマを仕込むのが好きな人々がいるのよ。
というかぶっちゃけシス思考な人たちは、成田教室の先輩たちにもかなりいたんだが。いや、別に健全に男子で男性なら、異性と付き合って結婚するとは思うよ。
問題はさ、この種の作品のようにその種のキャラクターを理解できないからって悪の一部であるかのように追いやり殺してしまうオチにする事でしょ?それが一貫して一般作品で増産され続けるのはいかがなものか?
あいつはゲイかもしれないから子供番組には携わらせるべきじゃない、みたいな差別って奴?ボクのように局部が生まれつきインターセックス気味なら、、やっぱりあいつは生まれつき男女どちらでもないから子供番組に携わらせるべきじゃない、って事になったのかな、、。
まさに、たぶんボクの「シガレットチョコ」の一人(中性キャラ)やさやかなどのキャラ陣がパッチワークというか足されてナデ●ア自体にされ、あぶれた一人的なルックスのビナシスが死ぬ、って、つまりはそういう事なんだよね、、、だからそりゃ悲しかったわけで、ナデ●ア放送終了後は、あぁ、アニメ特撮業界に自分の身体の行き場所なんてやっぱり無いなと思ったよね。結局どないもこないもならないや、と。まぁ同人コミケでも18禁でもシス思想による差別的なのはあるしどっちも駄目ではあるけれど。
つまり、それでは彼らには被差別者の気持ちは解らない。だから「シンウルトラマン」は、「成田氏のウルトラマン」はギリギリ描けたが、怪獣側の被差別側披抑圧側の哀切などはまるまる抜け落ちてしまった。
そりゃシンマンの怪獣は全部宇宙人の残した生物兵器なんだが、、成田氏が自身の開かない左手になぞらえて、怪獣の開かない手をデザインしていたとか、そういう要素はシンマンの怪獣からは無いでしょ。つまり哀しみが無いわけだ。
というかそういう要素はそもそも昔のウルトラマンの時代にもフィーチャー度は少なかったんだが。でもウルQ1話のリトラ(成田怪獣じゃないが)やラゴンからして悲しいし、ピグモンやヒドラやガバドンやウーも悲しい。
まぁ、あの映画はウルトラQの単話としての「ウルトラマン」なのだ。そう考えるならほぼ◎。
シンマン自体が差異を越えるキャラだから悲しい怪獣が出なかったのかもしれないが、でも死んじゃうからね、、、。
そうすると別のシン作品ではまた振り出しなんだよね。新たな悪や敵が出るから、差別が振りだし化するわけさ。
すると戦いも振り出し化する。シンシリーズでもジークア●スでもそうでしょ?バンダイ喜ぶよね。やっぱり振り出しに戻ってさぁ戦いだ、になる。バトル、それは見たいだろうけどさ、それは戦争を見たいのか?今さら?
理解しあえない事をどや顔して戦い再燃させる作品を連発して欲しくない。
というか、そういう超越側やボーダーレスなキャラが死に続ける作品を乱発され続ける事で、生きる希望を失ってしまう視聴者の子たちは明らかに一定数いるんだよね。
、、、、、成田氏の思想や哲学や悩みや、色々あったけど、実は成田氏がウルトラやヒューマンなどのヒーロー番組から離れて、バンダイ模型情報やBクラブの連載も終わらせて、美術教室を始めた、その後の方が、成田氏の思想や理想主義や芸術家としての創作活動は充実していた。お金は苦しかったろうけど。
しかし、シンマンはつまり放送当時のウルトラマンには(多少ウヨ気味の社会正義側に寄った)どんどん近づけていたんだが、成田氏の内面の差別を受けながらも鬼のように「まつろわぬもの」の側面や、悲哀の側面を怪獣まわりの表現でなかなか表現できなかった。
つまり 成田氏の後半生の思い を描ききれなくて、結局いわゆる円谷初代ウルトラマンのヒーロー性や彼ら自身の権威のために全振りしてしまった、、そこがやっぱりボクから見ると欠点だった、わけです。
社会に認められなきゃ右化するしかないだろ?というのが彼らスタッフ側の正解で、しかし成田氏は晩年はそうしなかった人なので。
むしろ何の欠落も障害もない完全生物のウルトラマンだけ崇拝肯定されても、その崇拝が欠落や障害の無さから来るだけでは、ハンデ負ってる成田氏の救いには必ずしもならないんだろうな、、とは昔から思ってた。いやウルトラマンの人類への優しさや懸命さは充分表現されていたが。
いやあの映画の時間ではあれ以上は無理だと言いたいかしれないが。というかザラブやメフィラスで現代悪を表現したのは正解だったが、、、
ていうか庵野氏は大阪芸大だけど映像科だからさ。成田氏は彫刻科だから。モノを内面の魂見ながら創造するのと、外形からモノを映像化するテクニックでは、全く違う。仕方ないんだが。
要は「怪獣宇宙人に対する差別迫害者」としての人類を描かず、怪獣をみんな宇宙人の生物兵器にしてしまったから、、、差別問題の「人間の加害癖側面」が描けなかった。
宇宙人は侵略者だとか、それ自体リアリティーある証拠は何もないが、みんなそういう物語を作りたがる。その思考もいわばドグマで、、、、、なんていうのかな、人類の罪を度外視したままのテンプレでシス思考=古い思考のために、新しい人々や築かれた希望的関係が犠牲になりつづけるのは、、、。
成田先生に対してはボクの身体云々については言わず仕舞いだったけど(いや実際ボクはいまだに両親にすら言ってないが(笑))、仮に言ったとしても、先生はボクを差別はしなかっただろうと思ってます。まぁ割と先生も考え方は古い男女性別観な人だけど、あの人は そう生まれた事で人間を差別したりは、絶対にしない からね。多分だが。それは他のオタクの人々とは全く違うんじゃないかな。
でもまぁ、先生はボクらを「森本はスケベじゃのォ!!」とかいいながら笑わせる事がマジで好きだったので、どうせ言う気はなかったが。だってあの種のギャグが聞けなくなると思ったら、もったい無さすぎるじゃん。単純。先生のやばいギャグ聞き続けたかったから言わなかった。そんだけ。
いやそこはシンに反映させる必要全くないのでいいのだが。
というか、知性や能力の優れている美しい存在を差別しない事はむしろ簡単なはずだが、知性も能力もなく容姿が美しくもないからって差別していいわけでもない、という、そこ。先生はよく「愚は最大の罪悪である」と昔の言葉を口にしていたが、それは頭が悪い事を指すのではなく、「愚かな事をする事、人類自らの愚かさを正当化する事は、罪悪だ」という意味に捉えるべきだと思う。
いや怪獣が愚かに暴れるのも罪悪だけどさ。
元ガ●ナだった人々が、それらを今後クリアできるかどうか?ボクは楽観的なデータを持たない。
でもまぁ、ボクの疑問については、割と最近の土曜朝の新作ウルトラマンが、いつか解答してくれるのかもしれないが。もう一度書くが、ウルトラQ単話「ウルトラマン」としては、あの映画は◎だった。(ただ成田氏の後半生表現には足りてなかった)
◎ 単純に成田先生や、ボク自身が共感しうる立場でいうならば、「差別もいじめや迫害もやめられない人間たちが、更に強い存在に差別されいじめや迫害を受けるのは当然だ」、という漠然とした価値観はある。
でもそこを成田怪獣などを絡めて語るのは、たぶん人生を勝ち歩んできた人々には難しいのかもしれない。それは「ウルトラマン」で表現すべきじゃないよ、と言われるなら、、、時代は変わったんだろう。
~7:32
※ 成田先生は「ウルトラマンは死んだんです、ウルトラマンは魂は宇宙に帰って、帰ってこないんです」と言ってて、個展でそう言われたことがきっかけでボクは美術教室行く事になったんだが、やっぱりその「魂が宇宙に帰る」という希望なしに、ただ終わらせるのは、つまり上記の理由と、他人のキャラだからできるんだろうな、って事。成田氏ですらその希望は捨ててない。まぁ、あとは、円谷プロの円谷英二夫人はキリスト教信者だったから、オリジナルはそういう宗教的希望をウルトラマンの根幹に入れたかったって事だよね。
逆にシン~は反宗教というか、まぁ元々ゼネ●ロガ●ナは反宗教的なんだけど(オタ●ングの親が新興宗教教祖だったからかもしれないが)、そこが違うなと。宗教性スポイルしてるのはバンダイ理由かもしれないけどね。 中国輸出しなきゃならないとキリスト教思想は消されそうではある。ティガの最終回も配信できなかったそうなので。(難しいんだよ、桃高漫画研究部だって70年代からの大阪初の漫画研究「部」だったのに、やっぱりキリスト教学校だったから、リーダーシップはなかなか取らせたくない、って空気はあったので。実力はあってもミッション高いじめ、って大阪にもあったのさ) 13:03~12
まぁ、宗教性の有無で作品をけなす事はすべきではないかもしれない。オリジナルはオリジナルとして厳然とある作品だから。 13:07
個人的心情
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